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仮面ライダーゼロワン総括・感想『もうちょっと頑張れ、令和一号』

2019年9月より、令和一発目の仮面ライダーとして仮面ライダーゼロワン」がスタートしました。

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「ゼロワン」は、人工知能搭載人型ロボット・ヒューマギアが様々な仕事をサポートする時代で、主人公にしてヒューマギアの製造会社の社長である飛電或人がヒューマギアを悪用し人類滅亡を目論むテロリスト・滅亡迅雷.netと戦い、人類と人工知能がどうやって共存していけるかを模索するストーリーになっております。そんな「ゼロワン」が2020年8月30日に最終回を迎えました。

今回は、自分の一年に渡る「ゼロワン」の感想を述べていきたいと思います。

 

[注意]

この記事は、記事を読む人が「ゼロワン」最終回を視聴済みであることを前提に書いてあるため、ネタバレも含まれます。あと、言いたいことが色々散らかってると思いますがご了承ください。

 

目次

 

◆まずは取り敢えず…

冒頭でも触れた通り、新年号令和最初の仮面ライダーとしてスタートした「ゼロワン」。前シリーズである平成ライダーが「ジオウ」をもって締め括られた中で、例え年号が変わったとしても仮面ライダーというコンテンツが続いていけるかもしれないという可能性をより確かなものにしてくれました。仮面ライダー自体は、自分は基本平成しか見ていませんが長きに渡って追いかけ続けていたコンテンツであるため、そのことについては取り敢えず『お疲れ様でした』と言いたいと思います。

 

◆実際の感想

実際に自分が「ゼロワン」を一年間通して見てきた感想はというと、この記事のタイトルそのままで『もうちょっと頑張れ、令和一号』というものです。序盤は文句なしに楽しめましたが、中盤以降は色々と不完全燃焼というか、いまいち煮え切らない部分が最後の最後まで多いと感じました。

 

「ゼロワン」の序盤は腹筋崩壊太郎というお笑い芸人ヒューマギアが、プログラムされた仕事とは別に人を笑わせる喜びに目覚めていた…要するに自我を獲得したところを滅亡迅雷の毒牙にかかり殺戮マシン・マギアに変貌させられ、それをゼロワンに倒されてしまうところから始まりました。

このマギアという怪人は、自我を獲得、この作品の表現でいうとシンギュラリティ(技術的特異点)に達したヒューマギアが元となっております。さらに(プログライズホッパーブレード登場までは)マギアになったヒューマギアは破壊することでしか止められず、そうやって破壊されたヒューマギアのデータは元どおりにはならないというルールがありました。

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この腹筋崩壊太郎の様なケースが「ゼロワン」ではよく見られますが、個人的にはこの構図がヒューマギアが人工知能を持つが故の悲しみと滅亡迅雷の悪辣さを際立たせており、この冷酷なルールの中で戦わなければならないという緊張感を与えておりとても秀逸な構図だと思っていました。

その他にも序盤の時点で、ヒューマギアは人類の夢だと謳う飛電或人/仮面ライダーゼロワンと、ヒューマギアは人類の敵だと憎む不破諌/仮面ライダーバルカンヒューマギアも所詮は道具だと割り切る刃唯阿/仮面ライダーバルキリーといったA.I.M.S.のライダー達と、主役ライダーとサブライダーとでスタンスの違いをハッキリさせていました。それでも、人工知能の安全と人々の命を守るために共闘する構図も好きな要素でした。また、初期メンバーで女性ライダー変身者がいるところも、平成にはなかった要素だと思いました。個人的に序盤の「ゼロワン」は、仮面ライダーブランドを復活させた「クウガ」や、「ディケイド 」の後で平成ライダーをその先の10年まで続けられる道を繋げた「W/ダブル」に並ぶパワーがあると思っていました。 

 

中盤になると、キャラクターの描写が特におざなりになってきたなと感じる様になりました。

中盤の展開といえば「ゼロワン」において最も賛否両論分かれたであろうお仕事五番勝負のことが頭をよぎります。こちらは内容も大概なものでしたが、これに一年間全45話のうちの10話を使ったことにより、中盤でなされるはずのキャラの成長描写や関係性の変化の描写が不足していった様に思います。お仕事五番勝負は飛電のヒューマギアと天津垓/仮面ライダーサウザー率いるZAIAジャパンの製品であるZAIAスペックを使う人間が何かしらの仕事で対決するエピソードです。この時点でヒューマギアのお仕事紹介と対戦相手の人間の仕事への姿勢云々の話に尺を取られるため、主要キャラの成長や関係性の変化を描写するのに尺を回しづらくなっていたと感じています。そして五番勝負が終わるとヒューマギアや或人たちの夢の話やアーク、滅亡迅雷との決戦の話になっていくわけですが、所々『そうなるまでにどんなことがあったかなぁ…』と思う場面が増えていった様に思います。尺が足りなかったのはコロナウィルスのこともありますが、それを抜きにしてもどうなのかと思うことがありました。

その『そうなるまでにどんなことがあったかなぁ…』と思う傾向がより強かったのは、刃唯阿/仮面ライダーバルキリーではないかと思っています。

例えば彼女は最初、ヒューマギアはただの道具だと割り切った見方をしていました。それが終盤になると『ヒューマギアはただの道具じゃない』といった発言をする様になっていました。しかし、本編における彼女とヒューマギアの関わりは、そういった発言をするに至るまでには決して多かったとは言い難いものでした。それどころか中盤ではZAIAに戻ってから天津の雑用みたいな役回りばかりでした。唯阿を演じた井桁さんも、とあるインタビューでそれに関することと思われる部分に触れていました。

 シリーズの前半は、戦う女性、格好良い女性で、“不破諫”(ふわ・いさむ)というバディがいるという関係性があったのに、急に私の(所属する)会社が変わって(前半で所属していた会社では)上の立場でやっていた私が、急に社長の下で働く、でも“秘書”というような位置づけでもないっていう風になって……。

 自分の役回りが、いきなり変わったことで、私の存在意義とは何なんだろう?この作品で私は何をしたらいいんだろう?と思って。

 特に変身もしないし、感情もあんまり出さないし、その“刃唯阿”という役に対してどうしたらいいのかを模索しているような状況が続いて、その時はすごく不安だったし、自分自身がその役を好きになれない……。「なんでこんなことをしてるんだろう?この人は」って思っちゃったりとか、感情が分からないからどういう顔して立っていればいいか分からないというような時期が続いたのが、いちばん大変だったなという感じです。

(引用:女優・井桁弘恵、女性ライダーに没頭した1年間で何が変わった? | 日刊SPA!

唯阿だけでなく、他のキャラクターにもその様な傾向が頻発していた様に思います。主人公或人も、序盤から終盤にかけて社長らしい業務をしたり社員との絆を深め合ったりといった描写はあまり見られないにもかかわらず、飛電を追われた後に新たなる社長として社員から頼りにされているといった部分が見られました。他にも、滅亡迅雷のメンバーである亡や雷が物語後半で人類滅亡を望んでいたのが終盤で改心した理由が不明瞭であったり、同じく滅亡迅雷のメンバーである迅の行動理由も不明瞭であったりといったことが見られました。滅亡迅雷の司令塔である滅も、自分はアークのハッキングによるものとはいえヒューマギアを散々破壊してきたのに終盤では人類からヒューマギアを救うべく戦うと言っていたり、天津垓/仮面ライダーサウザー毒親の教育による歪んだ完璧主義からくる行動がアークに悪意を植え付けることにどう繋がるのかが不明瞭であるなんてこともありました。仮面ライダーバルカンの不破諌や或人の秘書ヒューマギアであるイズは、それぞれ医者型ヒューマギア・ドクターオミゴトに命を救われたことや或人との交流を通してヒューマギアに対する考えを改めていったり、自分の夢を持つようになったりする、プログラム・ラーニングによる行動とは別で或人に尽くすようになっていくといった具合に描写の積み重ねが他のキャラよりも比較的上手くできていた分、他のキャラがどうしても雑に見えてしまっていたと思います。特に不破は、他のキャラに比べて心情描写が丁寧でわかりやすく、物語の進行と共に成長していることも伝わってきました。その不破もヒューマギアに命を狙われた過去が天津によって植え付けられた嘘の記憶だとわかってから『今までの彼の戦いは何だったのか』みたいに思ってしまったこともありました。

 

物語における心理描写や関係性の積み重ねこそがキャラ造形なのだという話は、自分が以前に書いた記事でも触れました。

キャラ造形とは、設定のみに対して使う言葉ではなく、物語で描かれること全てこそがキャラ造形であると考えています。勿論予め設定を決めておくことも大事ですが、その設定を引き出しにして『このキャラはこういう性格だからこの時は〇〇なことを言う・〇〇な行動をとる』、『こういう性格の背景にはどんなことがあったのか』ということを物語の中で繰り返して積み重ねていくことで、そのキャラの人物像や“らしさ”が出来上がっていくのだと思います。また、作中の状況次第でそのような積み重ねの内容も千差万別になっていきます。要は、キャラ造形とはただ設定を固めることではなく、物語における積み重ねの繰り返しそのものなのです。そしてそれらを見せるためにキャラの見せ場を作ることは殊更重要になります。

(引用:最後に残った(?)道しるべ 〜虹ヶ咲のこれからについて〜 - スミダ屋®︎

この「ゼロワン」では、キャラ造形に置いて過程に不相応な結果が出るといった現象が物語後半で頻発していたなと感じることが多かったと思います。そのために、画としてカッコ良さげな展開があっても返って心に響きづらいといったことが多かったと思います。

 

ヒューマギアの扱いも、五番勝負ではアークからの信号でWi-Fi感覚で暴走させられていたり、終盤では暴走の基準がゼツメライズによるものなのか、それともシンギュラリティに達したら暴走するようになるのかがよくわからなくなっていったと思います。また、五番勝負の最終バッターを務めたMCチェケラがアークの介入なしに人類滅亡を望んだことについてフォローがなされなかったなどの点がむず痒いなとも感じます。極め付けには、アイちゃんという自発会話ができるアレクサみたいな装置にあらゆるライダーキャラの悩みを解決させていた感じです。こちらはヒューマギアみたいに暴走するわけでもないため、尚更ヒューマギアとは何だったのだろう…みたいな気持ちになることもありました。

また、序盤の一貫ニギローのときはヒューマギアは確かに道具だけれど人の心に寄り添える存在であるというテーマを上手く使っていましたが、後半に連れて『ヒューマギアにも心がある』といっておきながらも人間サイドはヒューマギアとどう向き合えばいいのかわからないみたいな雰囲気を感じるようになっていきました。終盤では多くのヒューマギアが滅の鶴の一声で人類に牙を巻いていた辺り、ただの危ないマシーンみたいに写ってしまったのも良くなかったなと思います。

 

キャラ造形とヒューマギアの扱い以外にも思うことはありますが、自分は「ゼロワン」を見る上で特にこの2つが引っかかりました。そのキャラ造形についても、ここでピックアップしたこと以外に引っかかったポイントはありましたが、文字数が膨大になってしまうと思うのでここではほどほどにしておきます。

まとめると、

  • 序盤はキャラのスタンスの違いや平成にはなかった要素が見られ、これからが楽しみであった。
  • 中盤以降のキャラ造形は過程と積み重ねが弱く、それでも画としてカッコ良さげなシーンだけが並ぶなんてことが多かった。
  • ヒューマギアのシンギュラリティ云々の話が何が何だかよくわからないことになってしまった。

ということです。

 

そんな中でついに迎えた最終話。どんな感じだったかと…

 

まぁ、言いたいことはなんとなくわかるんだけどなぁ…みたいな気持ちになりました。

滅とは一応和解という流れになりました。しかし、終盤では一般のヒューマギアも暴走していましたが彼らのことが解決されたようには見えなかったのが少し残念に思います。それから、お互いにそれぞれイズと迅を失ったことにより悪意に身を任せそうになっていた或人と滅ですが、結局イズも迅も復元できたためあまり悲しみが伝わってきづらかったかなと思います。イズの方はデータが初期化された状態での復元とはいえ、或人のやっていることは序盤の声優ヒューマギア回の多澤社長と似たようなことになってしまっている様に見えました(大切な人とそっくりのヒューマギアを作る)。多澤から見たセイネと違って亡くなった人間をモデルに作っているわけではないですが、ありがたみが薄くなってしまうのではと感じる面もあります。或人自身『イズの代わりはいない』と言っていましたが、同じ姿形の別機体とはいえ『普通に代わりはいるから、その代わりに前のイズの真似をさせればいいから』みたいに受け取られてしまうと思います。アークワンになってまでイズの仇である滅を倒そうとしたのは何だったのかみたいにも思います。其雄(或人の父)は『或人は成長した』と言ってましたが、自分としてはどうもしっかり来ません。

 

そして、いかにも『続きは劇場版で』という感じのエンディング。これなんて「ディケイド 」?滅との決着はつけるなど、あちらと違って何かしらの区切りはちゃんと付けているようには見えますが、物語序盤や「令和ザ・ファーストジェネレーション」で掲げられた『人類とヒューマギアの共存』という課題が解決されたという手応えが感じづらく思います。それも劇場版で答えを出すのでしょうか。そこは気長に待とうと思います。

 

◆最後に

そんなこんなで一年間の放送が幕を閉じた「ゼロワン」。先程も触れたように序盤はほぼほぼ文句なしに面白かったですが、中盤以降の積み重ねが弱く、何かしても心に響きづらい展開が多くなってしまったと思います。

それでも、劇場版では今までの戦いに対する回答を出せるのでしょうか。そこは先程も書きましたが公開を待とうと思います。そして、令和ライダーが10周年なり20作品突破なりを迎える頃には「ゼロワン」も令和ライダーの記念碑としての功績が讃えられる日が来るのでしょうか、とも思います。だからその日まで『もうちょっと頑張れ、令和一号』と言いたいと思います。同じく平成ライダーの記念碑である「クウガ」は、クロスオーバーである「ディケイド 」や「ジオウ」でも十分に活躍できたとは言い難い感じでしたが、流石にもう時代が変わったでしょうからその辺はどうなるかわからないですね。

 

取り敢えず、バトルスピリッツでイズがカード化されることは、一視聴者としてもバトスピユーザーとしても嬉しく思いました。

 

 

 

実写スチールでのカード化は「エグゼイド」の“神”以来です。

ついでにバトスピでも、沢山の人が「ゼロワン」のデッキを握ってくれるといいですね。

 

ひとまず、「仮面ライダーゼロワン」、一年間お疲れ様でした。

 

それでは、今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました!